1人でいることについて

東日本大震災の際やコロナウイルスの流行時に決まって問題提起されるのが、絆とか人間関係とか困ったときに助け合える存在とか愛とか何やらが多いけど、私はそもそも人は1人で生きていて誰とも分かり合えないという前提で生きてきたので、世の中が分断されても上記のような人との繋がりを強調するような風潮には同意できない。

ということを考えはじめたのは、多くの人が直面するであろう大人になってから子供時代の友人知人との人生における差異が生じるということを最近身をもって実感したからだ。結婚し、アルバイト生活をし、地元に帰るか悩み、東京で気ままに暮らし、子供を産み、転職をし、家を買い、自殺し、行方知らずになり、そもそも連絡を取り合わなくなり、当たり前のことだけど横並びの人生ではないということを改めて実感する。そもそも生まれた時からどんな人間だってみんな家庭環境なり容姿なり親なり容姿なり能力なりが違うはずなので、均等な教育待遇というのはある意味残酷だなーと思う。だって本来的に格差が生じているはずなのに、その事実を覆い隠してみんな横並びで同じような人間ですよと子供を騙しているように見えるから。もちろん察しのいい子供は早めにその事実に気がついて努力したり、客観視したりで自分が快適に暮らしていく方法を身につけていくんだろうけど、みんながみんなそんなに器用じゃないよね。不器用で察しが悪くて自分が他人と違う、というか他人と比べて不幸に見えたり苦しんでいることにやりきれなさを持っている人がたくさんいる。まあ私自身もその1人なんだけど、今努力して自分軸を持って正負の感情・出来事どちらも味わえるように捉え方の改善を目指している。

で、一体どんなことをして捉え方を改善しようとしているかというと、

・自分の生い立ち、過去、現状、いずれくる将来、そういった自分自身について他人と比べないようにする。もっと言えば勝ち負け優劣ではなく自分の経験を客観視して一つの物語的に捉えるようにする

・その一方で明らかに自分より「成功した人生」を送っている人がいる。他人に対する嫉妬や自分に対する劣等感、そういったものも客観的に捉えるようにする。結果、他人と自分を切り離して考えられるようになり、よち自分の人生だけに集中できるようになる。つまり他人の人生なんて映画やドラマ、もしくはノンフィクションものの本くらいの参考にすぎないってこと。やったね!

・上記二つの価値観の改善を続けることで、社会的イベント・各年齢における理想像一般像から自分を切り離すことができる。つまり何歳には結婚してとか、友人は何人いてとか、年末は海外とか、戸建て持ちのデュアルライフとか、孫は何人とか、趣味の充実とか、介護施設入居不要とか、親の介護を楽しむとか、毎日楽しく充実キラキラライフとか、そういったものから自分を切り離して客観的に楽しめる。つまり自分に余裕ができてより人に優しくなれるということですよ!

ということを日頃から心がけて頑張っている。

で、タイトルの件なんだけど、上記のような心がけを心がけ始めて効果が少しずつ実感できてきているとはいえ、やはり不安感や否定感に苛まれることがある。それが私にとって「1人でいること」だ。

思えば物心ついた頃から1人遊びが好きな子供だった気がする(下ネタじゃありません)。それが小学生になり友達ができ平日休日問わず他人と過ごすことが当たり前になる。その一方でやはり1人の時間の心地よさも感じていて、だんだん気の合わない他人と過ごすことが苦痛になっているのを実感し始めたのが中学生くらいかな。同じ頃に家庭内で色々あって「他人は絶対に自分をわかってくれないし、自分も他人を解ることはできない」みたいな考えが強迫観念的に染み付いた気がする。その頃から少しずつ人付き合いを避け始めたな。でもその一方で気の合う友人とは長くいたいという願望も強くなり始めた気がする。結局のところ、1人は嫌だけれど気の合わない人間といるのも嫌だ、という我儘な人間なのかもね。で、高校に入って一応校内で仲良くできる友人は作ったけど校外での付き合いは一切なかった。休日は中学の頃の友人とばかり過ごしてるか、1人でいた気がする。この頃過ごしたこの中学の友人は会う機会こそ少ないけれど、今でもたまに連絡をとるし人付き合いのわるい私でも年に1、2回は会うから親友と言ってもいいのかな。まあともかく高校生の頃から私には休みをともに過ごすような新たな友人はいなくなった。

で、高校卒業以来はほぼほぼ1人で過ごしている気がする。一時期恋愛対象ができてある程度頻繁に会うことがあったけど、別れてしまってからはまた1人の日々に戻った。一応曲がりなりにも勤め人として日々働いているので、職場内で連絡先を交換したり飲み会に誘われるような関係の人はいる。一度転職をしているけど、たまにふと連絡をしたり、されたりするような関係の人もいる。こういう関係って一応友人と言っていいよね?

でもまあ休みの日はまず1人だ。そして家から出て商業施設なり道路なり街なり観光地なりに行くと皆誰かしらの連れ合いがいる。そういう人たちを見るとやはり若干の劣等感を覚える。大人数で過ごすことができない自分とか、友人を選んでしまうような自分とか、恋愛対象になれない自分とか、まあつまり「多くの人が当たり前にできていることができない自分」が見えてくるわけさ。そうなるとやっぱり心穏やかではいられない。だから人が多いところは苦手だ。なるべく人が少なくて、カップル、少人数の友人同士、夫婦、1人、こういった組合せがバランスよくいて静かなところが好きだ。だから私は地方で生活した方が1人でも気持ちよく暮らせるかなと思ったけど、地方は人が少なく文化も狭いぶん、1人でいるのは肩身が狭い。むしろ都会の方が自分に合っているのかもと思い始めた。

道行く人がみんな他人で、住んでいる場所に知り合いが誰もいなければ自分と他人の差を感じなくていいんじゃないかと思う。だって曲がりなりにも自他に似たような要素があるから比べてしまうわけで、そもそも皆他人と実感できるような場所で暮らせば孤独なんて感じずに済むんじゃないだろうか。別に寂しい人と思われても関係ないし。人と話して人間関係の話が出てきても自分には関係ないと割り切れるし。

つまり何が言いたいのかな?多分みんながみんな同じものを求めているように思わせるような社会が嫌いで迎合したくないってことかな。そもそも人との繋がりを求めることが当たり前ではないんだよって話。でもまあこうやって文章を人の目につくようなところに書いてる時点で私も人との繋がりを求めているのかな。

岡田尊司著「回避性愛着障害 絆が希薄な人たち」感想

私は幼少期から思春期にかけて親との間にトラウマとなるような出来事がいくつかある。その影響か、先天的な問題なのかわからないけど対人関係において苦労して、その結果としてそもそも人との関わりを避けるようになった。それだけならまだしも、少し努力が必要だけど自分のやりたいことから逃げたり、自分にできる範囲内のことしかやらなかったり、欲望ではなく義務を優先したりしていて、自分の人生の意味ってなんなんだろう?と考えることが頻繁にある。趣味も3大欲求も仕事も生活も人との関わりも楽しめない自分はもはや幸せを感じる能力が残っていないのでは?

そういった個人的な苦しみから逃れるためにたまーに心理学や精神障害の簡単な本などを読み漁ったりする。というわけでこの本読んでみました。

 

現代人は回避的な傾向を身につけた人が多くいるという指摘。回避性が強い人でも生活や人間関係に支障なく幸せに暮らしている人は数多くいるけれど、そうではない人ももちろん存在する。そういった人たちが回避性愛着障害という後天的なパーソナリティのせいで苦しんでいるのです(私でーす)。

この障害は愛着障害という括りの中でも特に面倒な物事や対人関係などから回避する性質が強い人のことを指しているけれど、その原因を作るのは子供の時に親や周囲を含めた自分の庇護者たちが、自分にとっての「安全地帯」、つまり自分を全肯定して安心させてくれるような存在でなかったことに起因する。あーもう心当たりありありアリーヴェデルチですよ。私の場合は母親がヒステリックで支配的、父親が放任的でコミュニケーション拒否かつ抑圧否定という、不安・回避型の両親だったわけで。そりゃー虐待や明らかなネグレクトを受けている子供たちに比べればまだマシな方だと思う。でもこんな両親よりよっぽどまともな性格で子供に愛を注げる親御さんたちが世の中にたくさん存在していて、その中で安心して育った子供が無事人生を前に進めているのを見ると私の人生って一体なんなのと悲観に暮れてしまう。まあー何はともあれ私はそんな中で育ち、無気力で不安で回避してしまうような人間になってしまい、いろんな人間を傷つけ期待を裏切り、そして自分自身も傷つき人生のイベントを回避してきたことを今更後悔してなんとか変わろうと頑張っているのです。

この本に限らず、精神科医の方の書いた本を読むと私に当てはまっている症状や特徴が多くてなんということか!と凹んだり感心したりします。この本でいえば、回避性の人ほどインターネットなどのメディアに依存したり、そもそも性的願望が少なかったりセックスより自慰行為の方が好きだったり、放浪癖があったり、親切にされると逆に遠ざけてしまったり、自己開示や感情表現が苦手で何かにつけて論理的に考えてしまったりetc。。。それ以外にも私の両親にも当てはまるこんな親のこんな行動が原因だよ的な記載もいっぱいあって笑っちゃいました。いや本当に私と私の両親含めた家庭環境を愛着障害他諸々の諸症状かつ原因の代表的ケースとして精神科医さんに差し上げたいくらい。

この手の本には、「あなたはこの本で紹介したケースのどれに当てはまるかチェックしてみよう問題」みたいなのがあるようで。私もやってみたところ、不安型優位の回避性併存という本書であげる一番厄介なパターンでした。周囲に気を遣い嫌われないよう八方美人的にあくせく動き回り、そのくせ親しくなろうとしたら自分から相手を避け、親しくなったらなったで強烈に依存して別れの際には泣き縋り、新しい物事や環境へのチャレンジを避ける現状維持タイプ。はー自分でもわかってはいるんだけどさ、やっぱりこう論理的に自分の諸症状をバシッと挙げられると凹む。

自分の人生や関心楽しみについての無関心も挙げられてました。ちなみに私は他の人から、「好きなものは?」「何してる時が一番楽しい?幸せ?」「どんな人がタイプ?」「どういう風になりたい?」などと聞かれても即答できない。考えるのがマイペースというのもあるけれど、そもそも感情や感覚が摩耗しているので自分の気持ちがわからない。で色々考えてから答えるんだけど、捻り出した答えは自分の本心ではなく思考に基づいているので話しているうちに整合性がなくなっていく。そして支離滅裂な会話になって相手の気分を害してあっ察しとなってしまうわけさ。辛い。

でもまあ回避型(私は不安要素強めの型だけど回避性も併存しているので当てはまる)の人には仕事をする上での強みもあるわけです。それは冷静で専門的で目的がはっきりしてるが故に集中しやすいということ。回避型の人は自分にとって面倒だったり、恐れているものだったり、未知のものから逃げやすいけど、既知のものや自分の目的に沿ったものに対しては力を注ぎやすいので、仕事においては強みを発揮しやすい。けれど当然人間関係は得意ではないので、周囲の人との軋轢を生みやすい。はい私です。雑談が得意ではなく、仕事はこなすけど愛想は良くなくて何を考えているのかわからないんだから、日本みたいな和を持って尊し社会においてはそら弾かれますわな。回避性を持っている人の中には上辺だけの人間関係を構築するのが得意な方もいらっしゃるようで、そういう人は仕事もできるからモテたりするんでしょうね。で、愛着障害持ちの薄っぺらいつながり求めマンウーマンなわけだから複数人と性的関係持ったり、付き合ったり別れたりを繰り返すんでしょうね。はい、私の知り合いにそういう方いますし、そういう方の毒牙にかかった女性もいます。その絡め取られた女性は自分と似た雰囲気(その女性も愛着障害らしき感じ)を感じた&仕事ができるというところに惹かれてまんまと相手の男性のおもちゃになったそうなんですが、本人は幸せだったと言ってるからこちらとしてはよかったですねとしか言えない。

つらつらと本の内容と、それに準じた私の体験談及びモヤモヤを書いてきたけど、この手の本は当然最後に「この諸症状から抜け出して幸せになるには」的ハウツーも載せてくれています。それは今からでもいいから、現在の自分のつらさの原因と向き合って苦しみを自覚し、なおかつ「あれ、自分が思ってたより大層な悩みじゃないんだ」と気づくことだそう。それは心療内科などでカウンセリングを受けることでもいいし、自分が回避してきたものごとが苦しくてもあえて飛び込むということでもいいし、辛い場面を想像してさほど辛くないということを理解する暴露療法的なことでもいい。ただ自分にとっての安全地帯を見つけるのが大事なんだと。

所詮人間は頼るところがないと生きていけない弱い生き物なんだなと思う。それは親であって家族であって恋人であって友人であって子供であって趣味であって仕事であって、「自分」だけに重きを置くことは無理なんだと思う。自分に全幅の信頼と肯定感を持ってる人は、前述した通り子供の時に自分の存在を肯定され続けて挑戦できる自分を持っているポジティブな人なんだと思う。私は違う。心から頼れる人はいなくて、自分から相手に擦り寄っていくこともできなくて、現状が嫌なくせに変えようとするチャレンジもできない臆病者だ。だから結果はどうであれ色々なことにチャレンジしている人が本当に羨ましい。それが世間的に疎まれたりはみ出しているとされてるものでもだ。私はそのことに気づくまでに20年近くかかった。だから過去の自分が本当に嫌で仕方ない。ウジウジ悩んで人生の一番若くて力のある時期を無駄にした自分が本当に嫌いだ。非はないのに人生を楽しんでいる人たちが羨ましくて恨めしい。だけどこんなことを考えている自分がもっと嫌なので、変わりたい。とりあえずこういった自分の性格や人生に関わるような本をもっと読み尽くして、自分の好きなことや願望を把握して、それを叶えるよう努力しようかな。

 

 

岡田斗司夫著「ユーチューバーが消滅する未来 2028年の世界を見抜く」感想

以前知人と話していた際、いずれ二次元の世界に入り込めるようになればいいのにねという話題が出た。私はカッコつけたがりで中々本心を明かせない人間なので、いやほんとそのの願い叶ってあなたには幸せになってほしいわと冗談めかして言ったが、実のところ私も二次元の世界に入り込みたい。そしてこの本にも二次元のキャラクターとの結婚云々の話が書かれていて、ふーむなるほどと腑に落ちるところがあったのだ。

現実に生きる私たちは美男美女ばかりなわけが無いし、面白さや賢さ、強さに恵まれているわけでもない不完全で醜い生き物だ。でもそんな私たちの願望や理想が投影された二次元もしくはフィクション上のキャラクターなら私たちが失望することはないし、もし失望することがあっても「ま、所詮二次元だしね」で済ませることもできる。それどころか、もしもアンドロイドなり3dプロジェクター的に出てくるようなキャラクターだとしたら、ai機能を活かしてユーザーの好みや反応を学習してどんどん自分好みになるようなものだろうし、もはや現実の異性同性と付き合いをもつ必要もないのかもしれない。ただ、仮に二次元のキャラクターと生活を共にすることが当たり前の世の中になっても、今を生きる私たちは中々既存の価値観を捨てることができないから、血の通わない無機物と生活することに虚無感を感じてもおかしくないなと思う。そのような世の中が当たり前になったタイミングで生まれ育った世代にとってはそんなこと当たり前になるのだろうが。価値観考えたを常に柔軟に変えれるよう普段からトレーニングをしておかなければなあと思った。

後、これは色々なところで目にする意見だけれど、aiが行うのは行動や原理の提示までであって、その中から選択して責任を取るのはやはり人間だ云々の記述もあった。手塚治虫火の鳥では政治における全ての選択行動をaiが決定するという話になっていたが、現実においてはやはり人に最終決定を行ってほしいという人が多いのでは。とはいえ現実世界においても政治は民衆の意見を反映してるとは言い難いし、民主主義においても独裁政治みたいなことをやっている事例はたくさんある(例は思いつかない)。だったら人間の感情や好き嫌い抜きに判断できるaiに全て任せてしまってもいいんじゃんと思う私である。要するに自分の責任を委ねられる存在が欲しいだけの甘ちゃんなんだけどね。

あともう一つ。昔はどうなんだか知らないけれど、今の世の中キラキラした人生を送るのが当たり前!的な風潮に一石投じるような内容もあって面白かった。私は今も昔も世間が考えるキラキラした幸せとか、人様が一般的に叶えられるような幸せとは無縁な人間だ。だから今のポジティブイズベスト、個人の努力次第で幸せになれるよ!的な風潮が大嫌いだ。恋愛仕事友人家族親子老後趣味健康、どれも幸せのステレオタイプが世の中に蔓延っていて、それを追い求めるのが当たり前、弱者や悪い部分には目もくれず自分と自分と同じくらい幸せの人たちと仲良く楽しく過ごしましょうねーなどと言われているような気がしてならない。ただ生きていて、多少健康で、衣食住が満ち足りていて、少し趣味があればそれでいいじゃんと思う。なんでこんなにもっと人生を充実させましょう的な世の中になってるのか。不幸でも暗くても苦しくてもいいじゃないですか。とわざわざブログに書いて憂さ晴らししているあたり、私も上記の幸福最低源達成していればいいじゃん説を飲み込めてないんだろうな。はー早く人生生きてるだけで幸せ的考えを身につけたいものですよ。